大人からのクリエイティブ

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コラム

 

大人が楽しめる社会にするにはどうすればよいかを考える。

大人だけが楽しめるという意味ではない。大人も楽しめるという意味である。

 

なぜならば、子どもたちはどうやっても大人を見て育つからで、観察の対象となる大人たちが楽しそうでなきゃ辛いのではないかと思うからだ。

 

そもそもこの国は平均年齢48.6歳。大人ばかりの国。観察者である子供に対して観察の対象の方があまりに多い。

 

つまりは子どものため、今、そして未来のためである。悲観していても何も始まらない。

この国の国民が世界一自覚していることだが、悲観的な想像力は人の歩みを簡単に止める。東アジアは賢くなりすぎた。

 

 

もちろん、自分にできることが限られているのはわかっているので、身の回りから、まずは自分からできることを考えてみる。楽観的に生きることにはかなりの自信がある。そうでなければ簡単に大卒なのに仕事を辞めて専門学校に入り直したりなんてしない。賢いことを是とするステージから降り、ピュアに楽しまなければならないフェーズが来ている。

 

 

さて本題へ。

まず小さい頃に見ていた楽しそうな大人はどんな人だったか思い返してみると、おおむね小中学生の「将来なりたい職業」ランキング上位をそのまま思い浮かべればいいのではないか。ランキングの上位に入ってくるのは漫画家、イラストレーターなどの絵を描く仕事、医者と学校の先生、その下にはYouTuber、歌い手、シェフ、パティシエなどが並ぶ。

 

ざっと眺めてみるとわかるが、これらのほとんどは「なにかをつくる」職業だ。では、何かを作っている人が増えればもっと世の中はハッピーになるんじゃないか?と単純な思考回路で話を進めてみる。

 

何かを作ることに関して言えば、そのこと自体のハードルはかなり低い。

絵を描く、料理をする、詩を書く、物語を書く、曲を作る、服を作る、などなど。

 

デザインの専門学校に入り直した後に、前職の同期に「ワンピースを作ってみたいんだよね」と相談されたことがある。

「作ってみれば?」と返しただけなのだけど、彼女がハッとした表情をしたのを覚えている。

 

ここで一つの仮説として浮かぶのは、「正しいやり方で」「正しいスタートラインから」「正しい道順で」「正しいゴールに」向かわなければならないと思っている人が多いのではないかということだ。東アジアは賢くなりすぎた、と言ったが、これはまさに悲観的な想像力と結びつく。何手か先を想像してしまえるほどの経験と知識が身についてしまっているのである。よく頑張ってきた証拠とも言える。けど、何かを始めるにあたっては邪魔であることは確かだ。今ここで求められているのはすべての行為を楽しみながら進めることだ。

 

続けて「子供用のワンピースから作ってみるといいよ」と伝えるとさらに納得したようだった。

子供服は大人の服に比べて使用する生地の面積がかなり狭い。つまり費用がかからない。失敗がしやすい。高頻度で作れる。なにかを自分の手で完成させるという経験は何にも変え難い価値がある。

 

大人用の綺麗なドレープやシルエットを実現するにはそれだけでは足りないのはわかっているが、彼女に必要なのは小さく始める勇気とその一歩目を踏み出すことであった。これはデザイン的に考えると、「プロトタイピング」になる。失敗してもいいからとにかく小さく初めて一歩目を踏み出し、方向性を探る。正解はあとから考える。そもそもここに正解も失敗もない。気づきがあった時点で正解である。

 

海を描いてみてくださいと言われて、なんでもいいから紙一面に色を塗ってみる。

「なんでこの色にしたんだろう」「もう少し海っぽくしたい」こう思えた時点でそれはもう成功だ。

 

彼女はそこから絵を描いたり、服を作ったりしながら楽しく生活しているようだ。

 

身の回りの大人と子供の違いを考えてみた時、大人のもつ趣味はやたらと消費的な性向が強い。子供は暇があれば画材を持って絵を描くし、落書きをする。大人はお金を持っているのだ。

お金を持った大人が好みがちな旅行のほとんどは消費であるし、食事もそうだ。映画鑑賞もそうだし、スポーツ観戦だってそう。

特に最近はその傾向が強まっているような気がしてならない。SNSがそこに拍車をかける。

 

これは、それらが何かを作るきっかけになれば素晴らしいのではないかという提案だ。作るために見るのと、見るために見るのとでは全く違ったものになる。

 

 

何かを上達していくなかでの気づきは人を謙虚にさせるし、新しい視点をもたらす。だから子どもはいつまでも貪欲に学び続け、活気に溢れているのだろう。

 

天才的なマーケターとして知られる森岡毅氏の言葉でこんなものがある。

「好きなことを動詞で考える」というものだ。

料理が好き→料理を作るのが好きか食べるのが好きかではその意味が大きく異なる。

 

 

料理を食べるのはただの消費にとどまってしまうことが多いが、さらに書くことも好きであれば、そこにフードライターという価値が生まれる。

天職は動詞で探せ、というのはかなり実用的な考え方だ。

 

 

何かを作るという行為には試行錯誤が伴うし、失敗も成功も生まれる。

失敗ができない世の中になったなと思うことが多いが、クリエイティブな趣味の中では大胆な挑戦もできれば、派手に失敗もできる。

 

好きなものを上手くなりたいと思うがあまり、先行者である他者と比較して辛くなってしまうこともよくあることだ。

そんな時はやはり没頭できる行為を探すべきである。他人と比較して辛くなるということは価値観の中心がいつの間にか”評価されたい”にすり替わっている。

もっとも、何かを初めて上手くなるにつれてこの思いが増幅していくのは避けられない場合が多く、そこを乗り越えるのが1番難しいのだけれども。

 

思い返してみれば、小さい時には誰しもがノートの片隅に絵を描いたり、小説を描いたり何かを作って楽しんでいたはずなのに、なぜか大人になってからもそれらを続けている人は少ない。別に誰に見せる必要もなければ、評価もされることもないのにもかかわらずだ。

ただ、自分のために作る。もっとそういったことが普通になっていけば、今とは少し変わった考え方になっていくのではないかと思っている。

 

小さい時はどんなに下手でも楽しかったにもかかわらず、辞めてしまうのは他人と比較してしまうからだろう。

 

それをやめずにいつまでも何者かになりたいと思っている人間を「ワナビ(Wanna be」と揶揄する風潮は今も昔も変わらない。

何かを目指す人にとっては息苦しい場所である。別に目指しててもいいじゃんね。

 

子供というのは大人のことを本当によく観察していて、さらにそこに自分を重ねる。

自分にはこんな未来が待っているのかと想像することは彼らにとって日常的な行為だ。

想像力は無限大だが、環境の及ぼす影響は計り知れないほど大きい。

 

ただでさえ辛い、停滞した日本の経済の中で楽しみを見出すことは容易なことではないけれども、そんな日々の中でも創作は誰にでも許された未来を作る行為だとも思う。

 

なぜ、この内容でブログを書こうと思ったかといえば、それはひとえに「何かを作っている人たちが皆魅力的に見え」「そんな人が増えてほしいと思ったから」だ。

決して受動的にではなく、自分が作りたいと思ったものを思いのままに作る。

誰からの見返りも求めることなく、純粋に自分が好きなものを生み出したいという欲求は、その姿勢だけでも最終的に人を幸せにしうる。

 

社会人を経てデザインの専門学校に通って、曲がりなりにも創作について懸命に考えた日々がある。

 

自戒の意味も込めての投稿。楽しんで作ろう。

 

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