最近できたアメリカ人の友達から「日本人はなんのために生きているのか」と問われた。
主語が大きいからもう少し解像度を上げて話すと、過度な形式主義を続けている日本人は彼の目には奇妙に映るそうだ。
例えば、スムーズなコミュニケーションを阻害するような上下関係だとか、意思決定の過程なんか面倒臭いったらありゃしないとのこと。
日米間のビジネスに携わる彼だけれど、日本のトラディショナルな組織が硬すぎて面倒だと思って以降その仕事は受けないようにしたようだ。
あれ、みんな幸せなの?幸せなのは1番上にいる人だけだよね。といっていたが全くもってその通りだと思うし、それが嫌だと思った人から組織を離れるよ。といったらそりゃあそうだよね。そうやって残るのは頭の硬い人だけだよねと笑っていた。
分かっていても
しかし、不思議なことにどうやら我々日本人という生き物はそれでもそういった組織を選んでしまう。
特に就活なんかはいい例で、なんのために就活やっているんだろうと思いながら就活する人も少なくはない。
この方法がベストではないと分かっていながらも、そのほかに道が用意されていなければその道を進むしかないのである。自分がそうだったのですごくよくわかる。
実際には他に道はないのではなく、知らないだけだ。
知らないものはないものとして扱ってしまうのは人間のおろかな特性である。
知らないことを知っているというだけで少し賢くなれるのだとソクラテスが教えて来れたことを思い出せ。
もしくは、他の道があるのではないかと勘づきながらも、その道を模索する労力を割くほどには熱心でないというのが大半だ。
あの時、妥協せずに少しでももがいてみればよかったと思うのが嫌で、私はこうしてもがくことを選んだ。
彼の目には奇妙に映った一方で、もちろん新卒一括採用だとか、形式主義的なことが役に立つことも当然ある。
高品質なものを作りたいのであれば、エラーが出にくいようするために社員教育を大人数に対して同時に行った方が効率もいいし、例外の数が少なければ少ないほど、軌道に乗った生産体制などでは効率もあがる。
ものづくりの現場では工場ごとのエラー率、生産ラインごとのエラー率、さらにその内側のエラー率、社員一人一人のエラー率などのデータが取られていると思うが、そういう場では日本的なやり方が合っている。彼は、まあアメリカにも負の側面はあるからね、どっちもどっちだねーと言っていた。
ソフトウェアの時代
しかし、ものづくりの時代からソフトウェア中心の時代に切り替わった現代では、もっと柔軟なやり方でないといいものは作れないのも事実。
デザイナーを呼んで新たな商品を生み出すためのワークショップをやっても、前例がないから参考になりませんだとか、再現性が低いので実現できませんだとか、そういった結論になることは少なくないと聞く。
それはもうそもそもの出発点が間違っていて、前例ありきのビジネスしかできないのならば新しいものは作れないし、デザインはそういうことをやるために使うものじゃない。ユーザーのニーズなんてものは環境によっても変わってくるし時代によっても変わる。結局のところ彼らが欲しいのはなんとなく”やってる感”と流行りの”デザイン”を導入しているよ(できていないけど)感を見せたいだけなんだとデザイナーの愚痴を代弁しておこう。デザイナーが意思決定者になるしかない。頑張ろう。
話が少し逸れたけど、日本人は本当に幸せのために生きる気はあるのだろうか。
幸せは人によって形は違うと思うけど、それは幸せなのか?と問いたくなることは少なくない。
初手で大きな不幸の石を選んで壺の中をいっぱいにしてしまったら、その隙間にしか幸せは入らないんじゃない?
まず、幸せを壺の中に入れてからそれから耐えなきゃいけないことを考えてみてもいいんじゃないか?というのが彼も伝えたかったのだと思う。
要するに、優先順位の話だ。
苦しまないと幸せやお金は掴めない、幸せやお金をつかむのに苦しまなきゃいけないと思っているのは日本人くらいなんじゃないかと思う。
自己中心的という言葉があるが、日本人はもっと自己中心的であるべきだと思う。望んで不幸に向かっているように見えると言われるのはなんだか悲しい。
優先順位づけは自分も苦手だ。新しいことにすぐに飛びついてしまうし。ただ、どんな時でも幸せは優先順位の1番上に持っていたい。
楽しそうに生きていればいいことあるよといってくれた彼の言葉を信じよう。
違う文化圏の彼の意見はカラッとしていて面白い。
世界的に見れば恵まれている環境だし、日本は面白い国だね、と海外の方から声をかけてもらうことが多いので、その中で自分が幸せに暮らして魅力を上げていくことが少しでも世の中のプラスになればいいなと思う。
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